30 Reunion

30 Reunion


30 再会

 田所さん一家が山形に旅行したのは、八月の下旬でした。四泊五日、全行程を車で移動し、運転は田所さんと妙さんが交互にしました。旅費を少なくするために、前の二日は自炊の町営の貸別荘、後の二日は国民宿舎を利用しました。

 一日目は圏央道から関越自動車道に入り,東北自動車道を村田まで北上し、山形自動車道に入り、山形北で降りて山寺・立石寺に上りました。その日は月山のふもとの西川にある町営の貸別荘に宿泊。二日目は月山に登る。快晴の一日でした。降りてきて同じところに宿泊。三日目は移動日で山形自動車道が一部未開通のため国道112号線を北西に進み、湯殿山に心惹かれながら直進、庄内平野に出て鶴岡で昼食、致道館と鶴岡城址を見る。ふたたび国道112号線に乗り日本海側を北上、遊佐町の国民宿舎で宿泊。四日目は鳥海山を予定の七合目まで上りそこで昼食を取って下山。ビジターセンターを見学してから宿舎に戻ると激しい夕立。良い選択でした。五日目はまた112号線を南下,途中から国道7号線に入り、日本海沿いを走ります。新潟市に入って、北陸自動車道に新潟空港から入り長岡からは関越自動車道、スキーで毎年三月に訪れる湯沢を横に見ながら進み、鶴ヶ島で圏央道に入り午後二時過ぎに無事自宅に到着。全行程1150キロ、太平洋側から日本海側へ横断する、久しぶりの長旅でした。

 一日目に行った山寺へは、田所さんは大学を終えてまだまもないころ、最初に勤めた会社の夏の旅行で一度訪れていました。今からもう三十年ほど前になります。もちろんまだ独身で結婚のことなどほとんど考えることもなく、電気部品の在庫管理の仕事に夢中でした。1970年代の始め、大阪で万国博覧会が開かれた直後で経済は大きく飛躍し、田所さんも含めて多くの人が大量消費社会の到来にいやおうもなく飲み込まれていたような時代でした。未来学ということばが生まれ、将来の食事は丸粒三つぶを飲めばそれでよいというようなことがある種の現実感を持って受け入れられるような楽天的なところがありました。そのかたわらで水俣病で代表される公害の実態が次第に明瞭になり、ユージン・スミスさんが撮った水俣病母子の写真が時代の進行の一面を予告するかのような強い衝撃を与えていました。

 今年の春になって妙さんがいつものように夏の旅行の計画を立て始めたとき、そのうち一度山形を見て回りたいねという話がすでに何回か二人のあいだで出ていましたから、山形行きはまもなく決定の運びとなりました。場所も山寺・月山・鳥海山があまり迷うことなく決まりました。二人とも山が好きでしたから、山の雑誌に月山と鳥海山の高原湿原のうつくしい写真が載ったとき、田所さんはそれをすぐに購入し大切に保存しておいたのです。二人とも花にも惹かれていましたから、月山の弥陀ヶ原と念仏ヶ原の夏の写真はもはや何のことばもいらないものでした。澄んだ空と草花とさわやかな大気。鳥海山七合目にある鳥海湖の写真もすばらしいものでした。

 こうして訪れた山形は、予想にたがわず家族四人に多くの思い出を残してくれました。なかでも田所さんにとって感慨があったのはやはり山寺でした。一度訪れてからすでに三十年近くがたったのです。その時間の経過がまずなによりも不思議でした。三十年という歳月は一人の青年を四人の家族に変えていました。当時の在庫管理の仕事も充実してはいましたが、自らをもう一度振り返りたいためにふたたび大学で学ぼうとし、その間に仕事も現在のところへと変わり、住まいも幾度か引越しをしながら今の場所でなんとか落ち着きを得ました。二人が働いていたため小さいころは保育園で育った兄弟も、高彦くんはすでにおとうさんの背を超え、安彦くんももう少しで妙さんを超えそうです。時間は確実に流れていきました。

 今回山寺に行って気づいたことは、山寺を開いたのが、円仁というお坊さんだったことです。山内のいちばん古い建物は、小高い岩の先端にある円仁のために造られた赤い小さなお堂であることも今回初めて知ることができました。田所さんがこんなにも円仁というお坊さんにこだわるのは、歴史を学んでいるうちに、円仁が書いた『入唐求法巡礼行記』という本を読んでいたからです。この本は円仁が唐代の中国を旅行した克明な記録です。しかもこの本を知る直接のきっかけが、田所さんの場合は、アメリカ合衆国の駐日大使であったライシャワーさんが書かれた本『世界史上の円仁-唐代中国への旅』に拠っていたことです。ライシャワーさんはフランスのパリ大学で学んでいたときポール・ドミエヴィル先生から円仁の本のことを教えられ、その本の翻訳と研究に二十年間専念されたと述べておられました。田所さんはドミエビル先生の慧眼にも、ライシャワーさんの研究にも深く感動しましたが、それらを超えてもっとも強く心打たれたことは、学問や文化というものが、時代や国境を超えて連綿として受け継がれていくということに対してでした。日本の平安時代の仏教僧円仁・彼が細かに記録した中国の唐という時代・フランスのドミエヴィル先生・アメリカのライシャワーさん・日本で詳細な研究をまとめられた小野勝年先生、それらがまるで見えない糸にたぐられるようにつながっていくのでした。

 この事実がどのようなことよりもより深く田所さんに国際的ということの意味を理解させてくれました。その後田所さんは仕事の合間を縫っては、冬の奈良を訪れるようになりました。そのときの思いは、日本の古い都というものではありませんでした。冬の底冷えのする静まりかえった奈良が、ギリシャのアテネやフランスのパリのように、大きな文化の拠点として田所さんの心を魅了していたのです。

 田所さん一家は山寺を降りて板そばを食べ、おなか一杯になったあと、新しくできた立谷川対岸にある山寺芭蕉記念館を訪れました。真新しいきれいな記念館には、芭蕉や近代の正岡子規の短冊がいくつも展示され、ここでも田所さんはかつて、中国語を学び始めたころ、自らのアイデンティティの揺らぎに対して、大げさに言えばアイデンティティ再建の役割を果してくれたのが芭蕉のいくつかの詩文であったのです。短冊に記された「はせを」という芭蕉自らの署名に、田所さん自身の青春の彷徨が重なっていました。妙さんが「ここにもはせをって書いてある」といぶかしげに読んでいるのにも、「それはね芭蕉のこと」と笑って伝えられる自分の現在を、幸せなことだと思えるようになっていました。

 そしてさらに再会の旅は続くのでした。みんなで芭蕉記念館の見学を終えて外に出ると、その右手にきれいな小公園のようなところがあり、その中心にひとつの石碑が立っているのに田所さんは気づきました。妙さんと兄弟二人は風に揺れる幟をみつけ、なにかおいしいものでもありそうだと、向いのお店の方に行ってしまいました。田所さんは一人、その石碑に近づくと、それはライシャワーさんの記念碑でした。

 そこにはライシャワー夫人ハルさんの訳文で、ライシャワーさんのことばが記されていました。山形は「日本の本来の姿を思い出させる美しい所です。それは、松尾芭蕉が300年前にかの有名な旅行で山形を訪れた時に目に映ったものであり、私自身が20年以上も前に山形に旅した時に感じたものです。」とありました。

 ここに円仁ということばは出て来ませんが、ライシャワーさんが山形を訪れたもっとも大きな目的が円仁の研究にあったことはまずまちがいありません。円仁が山寺を開いたお坊さんすなわち開基であったからです。

 田所さんは三十年前ここを訪れたとき、円仁のことはまったく知りませんでした。その後に歴史を学びなおすこともまだ人生設計の外にありました。まして妙さんと結婚することも二人の兄弟をこどもに持つこともすべては未来のことに属していました。

 そして事実は現在のように進行したのです。  

 田所さんが石碑の前にたたずんでいるうちに、三人が戻って来ました。三人の気を引くようなおいしいものはなかったようです。今日の夕食は宿泊地の外でバーべキューをする予定で妙さんがいろいろな材料を仕入れてきています。幸いに空は暑く晴れ渡って、白い雲がまぶしいくらいです。これならば今日は満天の星空の下で食事ができるでしょう。炭もいつものように兄弟二人が上手におこしてくれるでしょう